土木学会誌11月号モニター回答

成熟時代のデザイン生産を想う


 デザインという観点から見れば、建設系を志す高校生や学科進学前の大学生にとっては、建築の方が土木より圧倒的に人気が高いと言えるだろう。土木構造物を設計・建設することが、すなわち国や国民のためになることであり、それに携わることが生きがいとなった「無名碑」の時代は既に過ぎ去ったと感じる。中村先生が提案されているデザイン生産の制度見直しのうち、とりわけ「個人の役割」が重要になると思う。日本は、農耕民族なので「個人主義」は根付かず、「集団主義」だ、などと言われているが、果たして本当にそうなのだろうか。これまでの歴史的転換点では、日本でも強烈な「個」が出現して変革をしてきたが、21世紀初頭の土木デザインを取り巻く環境も意外に早くパラダイムシフトしていくかも知れないと感じるのは私だけであろうか。
(室蘭工業大学 矢吹信喜)


“景観設計”という言葉が市民権を得たように、現在の土木構造物にはデザインについての検討が不可欠である。文中にもあるように、効率一辺倒の設計ではもはや社会には受け入れられなくなっているのである。
 とはいうものの、まだ“景観設計”の真の狙いが世間一般に理解されているとは言い難いのもまた事実であろう。擁壁にペンキでイラストを描いたり、構造物の一部のみに化粧型枠を用いたりというものもある。コスト的に折り合わないという側面はあろうが、構造物周囲の景観となじまない“景観設計”は景観破壊以外の何者でもないだろう。
 本稿では県道の渡河計画が一例に挙げられ、地元の望む“シンボリック”なデザインをあえて拒否して全体デザインのトータルバランスを優先したことが記されている。発注者の意志に反してまでデザイン重視の設計がなされたことは称賛に値し、大いに見習わなければならないと感ずるものである。現在の日本では“コンサルタントの技術者”の発言を見るまでもなく、発注者の意向が全てに優先する風潮があり、設計技術者もその意向に従うように“訓練”されてしまっているように見受けられる。もちろん発注者の意向を汲む必要がないということはあり得ない。しかし、土木構造物とは一般に社会の財産であるから、“みんなの財産”を作るという自負を持たなければならないだろう。発注者の意向のみに拘泥するばかりではなく、それを踏まえつつも土木屋の良心にも照らして検討を重ねて行くような姿勢が今後は求められてゆくのであろう。
(東日本旅客鉄道梶@太田正彦)


景観設計・土木技術のデザインという話を読んだり、聞いたりする際に、いつも陥るのが、何をもって是非を判断しているのがよく分からない場合がある。この悩みに一石を投げかける興味深い言葉が座談会の中にはみられた。
「デザインの質は、デザイナー個人の経験や力量、考え方 に負う、一方、土木設計には画一化をはかる標準設計というものがある。」
「デザインの話をしていると、どうしても文化論になってしまう。」
「日本人はどこで意思決定しているかわからない。(優秀な)デザイナーが一生懸命考えたものが、いつのまにか訳の分からないものになる。」
「土木は国家なり、建築は民間業者というイメージがある。」
「インフラ(土木)の設計は、強権的にきめてしまう。」
上記の意見から考えると、結局、景観設計・土木技術のデザインを論じる場合、その筆者の経験・力量・考え方の差、簡単に言うなら嗜好性の差が出てくるのだと思う。ただし、その意見にある程度の普遍性があれば、万人に受け入れられるだろう。それでも、完全に嗜好が一致することは非常に困難なため、景観・デザインに関する一般論にしろ、各論にしろ、個人差が出ると思う。 良いデザインの条件としては、デザインに対する意志・コンセプトの統一が成されことが、必要条件となる。しかし、土木工事は初期投資が膨大であるため民間では採算の合わないという特徴があり、必然的に関係者・調整箇所等が増えることになる。その結果、建造物が大きく数量が多いほど、標準設計を取り入れる必要がでてくるため、デザインに対するコンセプトの統一が困難となる。
これを打開するためには、計画段階でのデザイン設計を国家が主導で行ない。デザインを論じるに足る人物がコンペティションという形でも何でも良いが、積極的に土木のデザイン設計に参加しデザインを土木の中に取り込んでいくことが得策なのだろう。
ただし、土木の特質上、標準設計というものはなくならないであろうし、デザイナーに土木構造に対する知識が無い場合はデザインが机上の空論になってしまうであろう。私の意見としては、土木構造物はシンプルで、力学的に安定した構造を持つものが美しいと思っている。
(鉄道建設公団  倉川哲志)

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