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JSCE Magazine,“Civil Engineering”

土木学会誌

■土木巡礼(2015年の土木学会誌表紙写真)


■2015年

1月号の写真
峠(さったとうげ)
(静岡市清水区)
写真・文:大村 拓也
 
断崖が海まで迫るその先に富士山を見通す馴染みのある景勝地は、国道1号と東名高速道路、東海道本線といった国内物流の大動脈を束ねる古来の交通の要所でもある。2012(平成24)年に内陸部を通る新東名高速道路が開通した後も、その流れが絶えることはない。
江戸幕府が東海道に薩た峠を越える峠道を設けたのは、1655(明暦元)年のこと。それまでは、波が押し寄せる海岸を通らなければならなかった。再び海側を通るようになったのは、1854(嘉永7)年に発生した安政東海地震によって、海岸付近の地盤が隆起してからである。
2004(平成16)年から駿河湾を見下ろす峠道の一帯で、地すべり対策事業が始まった。断崖にいくつも点在する高さ100mもある土塊が、大雨や地震をきっかけとして、地すべりを起こす可能性があるという。大量の土砂が流出すれば、崖下を通る東海道を完全に寸断しかねない。
20年がかりの長期プロジェクトである。現在、地すべり対策として、山裾から掘ったトンネルの中で地下水を抜く作業が進む。一方、断崖に広がるみかん畑の間からは、土塊を垂直に貫く61基の深礎杭が順に構築されている。深礎杭は最大で深さ88mと日本最大級のもの。歴史ある風景の中に土木が埋め込まれていくことに行き交う人々は気付かないが、こうして日本は保たれている。

2月号の写真
大湊第一水源地堰堤
(青森県むつ市)
写真・文:大村 拓也
 
堤高はわずか7.9m。日本初の石積みアーチダムとして知られているが、堤高が15mに満たないので、定義上はダムに分類されない。小規模でありながら、独特な威厳を放っているのは、軍隊によって建設されたからだろう。
旧海軍の大湊水雷団(後の大湊警備府)が開設されたのは、1902(明治35)年。戦前は北海道に主だった海軍の拠点がなく、大湊がまさに北方警備の最前線。日露戦争後の基地の拡張に伴い、1909(明治42)年に陸奥湾を見下ろす傾斜地にこの堰堤は完成した。
アーチ形状を採用したのは、地盤がよくなく、堤体にかかる荷重を分散するためだといわれている。ただし、その後に建設されたアーチ式コンクリートダムと異なり、部材は厚い。堤体の下流側はオーバーハングせず、基部が迫り出すようにアーチを描いているのが特徴的だ。
明治時代以降、国内の近代的な上水道の整備は、横浜や神戸といった港湾都市が先行した。人口の急増に伴い、都市の公衆衛生を確保するためだけでなく、入港する外国船に飲み水を供給するという側面もあった。一方、補給基地としての役割を担う軍港においては、後者の意味合いがより強く、旧海軍は全国の各拠点で独自の水道整備を展開していた。こうした施設の多くは戦後、地元の自治体に引き継がれ、大湊第一水源地堰堤も1976(昭和51)年まで使用された。

3月号の写真
瀬戸大橋
(岡山県倉敷市)
写真・文:大村 拓也
 
本州と四国を結ぶ瀬戸大橋は20世紀を代表する大プロジェクトであり、本州と北海道を結ぶ青函トンネルと時を同じくして、1988(昭和63)年に開通した。その構想はとても古く、橋の開通から遡ること百年前の1889(明治22)年、香川県議会議員だった大久保ェ之丞(じんのじょう)が提唱したのが最初とされている。しかも、塩しわく飽諸島の島々を橋で結ぶという点で、現在の瀬戸大橋にも通じるものがあった。
大久保は、のちに国道32号や国道33号の原形となる延長約270kmの四国新道の整備に私財を投じた地元の実力者で、瀬戸大橋だけでなく、徳島県内を流れる吉野川から讃岐山脈を抜けて香川県に水を引く「香川用水」も提唱していた。香川用水は80年のときを経て、1974(昭和49)年に実現しており、大久保の先見性が窺われる。ただ、瀬戸大橋も香川用水も当時の人々には考えも及ばない、奇想天外な構想だったに違いない。
実際に架橋プロジェクトが動き出したのは、1955(昭和30)年に高松港沖の瀬戸内海で国鉄連絡船「紫雲丸」が沈没し、多くの人々が犠牲になったことがきっかけだった。もちろん、すぐに実現できるだけの技術力があったわけではなく、日本の経済成長とともに徐々に記録が塗り替えられる長大橋の架橋技術の発展を待つ必要があった。瀬戸大橋の開通は、先人の想像力に、土木技術が百年かけてようやく追いついた瞬間だったとも言える。

4月号の写真
永代橋
(東京都中央区・江東区)
写真・文:大村 拓也
 
隅田川に架かる橋の中でも、最も古いものは1926(大正15)年に完成した永代橋だ。1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、建設された。日本で初めて100mを超えるスパンを誇った長大橋であり、当時はまだ下流側に架かる橋がなかったことから、「帝都東京の門」とも称された。
復興事業で隅田川に架けられた橋は6本あるが、それぞれ構造形式が異なる。その後に架けられたものも含め、橋のデザインはバラエティー豊かで、隅田川はさながら「橋の博覧会」のようだ。復興橋梁のデザインや構造形式の選定にあたった内務省復興局の土木部長・太田圓三(1881-1926)や橋梁課長・田中豊(1888-1964)らは、最新の橋梁技術を取り入れると同時に、帝都のシンボルともなる近代的な橋を実現することに腐心したといわれる。
その一方で、東京を理想的な都市へと作り変えるはずだった復興事業は、政治的な紆余曲折があり、計画が完全に実現しないまま、頓挫してしまう。視点を変えれば、永代橋はその名残でもある。
今、東北地方太平洋沿岸の各地域では、2011年の東日本大震災から4年以上が経ち、復興が佳境を迎えつつある。中には、地形の改変を伴う大規模な土木工事も少なくない。関東大震災の復興の歴史を振り返ると、東北の計画が絵空事に終わることなく、後々までも意義のあるものであって欲しいと願うばかりだ。

5月号の写真
大阪市営地下鉄御堂筋線淀屋橋駅
(大阪市中央区)
写真・文:大村 拓也
 
大阪で初めての地下鉄「御堂筋線」が開業したのは、1933(昭和8)年5月のことだ。東京では、1927(昭和2)年に民営で地下鉄銀座線が開業していたが、公営で整備したのは、大阪市が日本で初めてだった。御堂筋線はその名の通り、大阪市中心部を南北に結ぶ長さ約4kmのメインストリート「御堂筋」の直下を走っている。1923(大正12)年に大阪市長に就任した関一はじめ(1873−1935)が打ち立てた都市計画構想に基づき、地下鉄は御堂筋と一体的に整備された。
御堂筋の整備は幅6mに満たなかった道路を幅44mに拡幅するもので、事業費の多くが住民の立ち退き料として充てられた。また、御堂筋の拡幅によって得られる利益を見越して、沿道の商店から税金を徴収する「受益者負担金制度」によって、事業費をまかなうことで1937(昭和12)年にようやく完成した。
 一方、地下鉄の建設は地盤が軟弱であるうえ、直交する運河を潜るようにトンネルを開削するなど難工事を強いられた。決して、潤沢な事業費があったわけではないが、将来の計画を見越して、初期に開業した梅田─難波駅間では、あらかじめ長さ約200mのホームを設けたことは特筆すべき点だ。1995(平成7)年には、その設備をフル活用する形で10両編成による列車運行が実現した。また、梅田と淀屋橋、心斎橋の3駅はホームにドーム状の天井が設けられ、大阪の地下鉄を象徴する空間となっている。

6月号の写真
下夕張森林鉄道夕張岳線第一号橋梁
(北海道夕張市)
写真・文:大村 拓也
 
夕張に「三弦橋」と呼ばれ、人々に親しまれた森林鉄道の橋があった。1958(昭和33)年に完成したこのトラス橋は側面の部材だけでなく、断面も三角形に組まれた国内初の珍しい構造だった。複数の四角錐を連続的に並べ、それらの頂点を1本の上弦材で繋いでいる。一般的な「四弦」のものと比べ、使用する鋼材量を減らせるなどのメリットがあった。設計は地元の大夕張地区出身で当時、北海道開発局の技術者だった有江義晴(1913−1987)によるものだ。
そもそも、三弦橋を渡る下夕張森林鉄道は、木材搬出を目的として1945(昭和20)年までに延長約17kmが整備された。三弦橋は1962(昭和37)年に完成した大夕張ダムによって水没する区間を新たに付け替えるため、架けられた湖面橋だ。全長381.1m、川面からの高さ68mと、一般の鉄道よりも小さな規格の森林鉄道としては、大規模な橋だった。ただし、森林鉄道の役割がトラック輸送に取って代わられると、1963(昭和38)年に廃止された。
5年しか使われなかった三弦橋はその後、半世紀に渡り、手付かずのまま残され、ダム湖のシンボル的な存在となった。しかし、今春ついに最期のときが来た。湖の容量を4倍以上に拡張するダム再開発事業で、大夕張ダムの下流側に建設していた夕張シューパロダムが完成したからだ。ダム湖の水位は従来よりも最大40m 上昇。三弦橋は大夕張ダムとともに、幻の遺構となって水面下へ姿を消した。 

7月号の写真
本宮(ほんぐう)砂防堰堤
(富山県富山市─立山町)
写真・文:大村 拓也
 
標高3000m 級の立山連峰から流れ出る常願寺川は、わずか56qで富山湾へ達する日本有数の急流河川として知られる。また、1858年の安政の飛越地震によって、立山連峰にある鳶山で山体崩壊が発生。常願寺川を河道閉塞させた大量の土砂が余震で決壊し、下流域を埋め尽くすほどの甚大な被害をもたらした。崩壊した土砂は最大約4.1億立方メートル。明治時代以降もたびたび土石流災害が繰り返され、今も立山カルデラに約2億立方メートルの土砂が貯まっているものと推定される。仮に全量流出すると、富山平野が2mの厚さで土砂に覆われる恐れがあり、国による砂防事業が進行中だ。
立山の砂防事業は、1891(明治24)年に現地を視察したオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指摘により始まった。ただし、当時は技術面でも財政面でも工事の実施は困難で、富山県が事業に着手したのは1906(明治39)年。その後、1926(大正15)年に国へ移管された。
本宮砂防堰堤は常願寺川中流域に1937(昭和12)年に完成した堤高22m、長さ107.4mの砂防ダム。上流から流下してきた土砂を約500万立方メートル貯留し、日本最大規模を誇る。一方、16q上流には、土砂の流出を直接抑えるために白岩砂防堰堤が1939(昭和14)年に完成した。こちらは主堰堤の堤高が63mと日本一を誇る。両者は日本における近代砂防技術の礎としての功績が認められ、それぞれ国の登録有形文化財、国の重要文化財になっている。

8月号の写真
三角(みすみ)西港
(熊本県宇城市)
写真・文:大村 拓也
 
明治時代初め、熊本市近郊にあった百貫石港を近代化し、流通の拠点を整備する計画が持ち上がった。だが、1881(明治14)年に現地を調査したオランダ人技師ローエンホルスト・ムルドルは、坪井川河口にあった同港が土砂で堆積しやすいことなどを懸念した。ただでさえ、有明海は干潮時に沖合まで干潟が現れるほど遠浅で、沿岸への大型船の接近を阻んでいた。
ムルデルが代わりに提案したのは、約50km離れた宇土半島の先端に位置する三角に築港することだった。天草諸島の大矢野島との狭窄部に当たる三角ノ瀬戸は水深を確保でき、かつ波風が穏やかなことに着目した。港は3年の歳月をかけて建設され、1887(明治20)年に三角港(現在の三角西港)として開港。国の特別輸出港となると、大牟田市にあった三池炭鉱の石炭の積み出し港として賑わった。同時期に整備された宮城県の野蒜港と福井県の三国港とともに、「明治三大築港」のひとつに数えられている。
熊本と三角を結ぶ道路は、築港と合わせて整備された。一方、鉄道は1899(明治32)年に現在の三角東港付近まで開通したものの、三角港まで延伸されることはなかった。さらに、1908(明治41)年に三池炭鉱の直近に三池港が開港すると、三角港は急速に衰退していった。そのため、明治時代の石積み岸壁や街の区画などが築港当時のまま残された国内でも数少ない港でもある。明治時代の産業革命遺産を構成する要素のひとつとして、世界遺産への登録が期待されている。

9月号の写真
勝間沈下橋
(高知県四万十市)
写真・文:大村 拓也
 
四万十川水系には、大小50以上の沈下橋がある。清流と称えられる四万十川のイメージに欠かせないアイテムであり、生活道路として地域に根付いた土木構造物だ。沈下橋がある風景は人間の営みが生んだ文化的な景観と言っていいだろう。
自然の風景と親和性が高い沈下橋だが、デメリットもある。構造的な特長として橋脚が低いので、洪水で水位が上昇すると、その名の通り、橋桁ごと水面下に沈む。洪水時、通行できないうえ、時として激流に橋が流されてしまうこともある。しかも、洪水時の水流を阻害しないように橋面に欄干やガードレールを設けていないので、車が橋から転落する危険性も高い。それでも沈下橋が整備された背景には規模が小さく、建設コストを安く済ますことができる点で、地方自治体の財政事情と合致したのに他ならない。
国内初のコンクリート構造による沈下橋は1927(昭和2)年、高知市の事業として同市内に架けられ、その後、日本各地へと広がったといわれる。四万十川水系では昭和30年代以降、自動車の普及による交通事情の変化に応じて、それまで活用されてきた渡し舟を置き換える形で定着した。
現在では、治水と交通安全の面から沈下橋が新たに計画されることはまずない。ただ、地域の実状に合ったスペックでインフラを整備するという考え方は、交通量が比較的少ない地域で完全な2車線の道路整備にこだわらない「1.5車線的道路整備」などとして、高知県の土木行政の中に今も健在だ。

10月号の写真
五行川橋梁
(栃木県真岡市)
写真・文:大村 拓也
 
背丈が低いポニートラスには、小型のタンク機関車がよく似合う。どことなく「陸(おか)蒸気」を彷彿とさせる光景だ。
真(もおか)岡鐵道には、五行川と小貝川の2カ所にポニートラスが架かる。共に1913(大正2)年に開通した。ただし、トラス桁自体は1894(明治27)年にイギリスで製作したものと考えられている。製作と開通の時期に隔たりがあるのは、別の場所から移設したからだ。
日本の製鉄技術が未成熟だった明治時代、鉄橋の部材は海外からの輸入に頼っていた。特に官営鉄道の建築師長をイギリス人技師チャールズ・ポーナルが務めていた1896(明治29)年までは、経験に則って設計されたイギリス製のものを数多く採用していた。だが、ポーナルが帰国すると一転して、理論に基づいたアメリカ式の橋梁設計法を導入。部材の調達先もアメリカへ移行した。この動きと並行して、幹線では、機関車の大型化に備え、強度が不足するイギリス製の鉄橋がアメリカ製のものに架け替えられていった。
架け替えの際、押し出されるようにローカル線や私鉄へ移設された桁も少なくない。真岡鐵道の2基のポニートラスもそうした中の一例だ。トラス桁の来歴を明らかにした文献は見当たらなかった。ただし、東京都と千葉県の県境に架かる常磐線江戸川橋梁は1896(明治29)年に開通し、1911(明治44)年に5連のトラスが架け替えられた記録が残っていた。このことから初代の江戸川橋梁が栃木県へ移設されたと想像するのは、決して見当はずれではなさそうだ。

11月号の写真
三滝ダム
(鳥取県智頭町)
写真・文:大村 拓也
 
林道を延々と辿っていった山奥に、三滝ダムはある。北股川を水源とし、蓄えた水を標高729m から標高534.68mにある芦津発電所へ供給する発電専用のダムだ。発電に使われた水は、さらに2カ所の発電所を経て、標高230m 付近で鳥取県を代表する河川である千代川(せんだいがわ)へ流れ込む。
堤高23.8m、堤頂長82.5mのこの小さなダムは、「アンバーセン式バットレスダム」と呼ぶ特殊な構造形式に分類される。遮水壁として用いる鉄筋コンクリートの板にかかる水圧を下流側に格子状に組んだ柱や梁で支える仕組みだ。堤体の内部に空間があるので、同規模の重力式コンクリートダムと比較して、使用するコンクリート量が少ない。ダムが完成した1937(昭和12)年当時、まだコンクリート材料が高価だったうえ、資材を小規模な森林鉄道で施工現場まで運搬する必要があったことから、資材が少ないバットレスダムが採用されたのだろう。
日本では、この形式のダムは1923(大正12)年に完成した北海道の笹流ダムを皮切りに合計8基が建設されたものの、三滝ダムが最後となった。施工が複雑なだけでなく、寒冷地では、コンクリートが凍害による損傷を受けやすいことが明らかになった点も理由のひとつに挙げられる。また、耐震上、巨大なダムに向かないという側面もある。時代の要請で開発された技術が永続しない例は決して少なくない。ただし、それは試行錯誤の証であり、その時代こそが技術的な発展期だったと振り返ることもできる。

12月号の写真
宮守川橋梁
(岩手県遠野市)
写真・文:大村 拓也
 
コンクリートアーチ橋の手前に伸びる1本の柱は、JR釜石線の前身に当たる岩手軽便鉄道の橋脚の遺構だ。「軽便鉄道」とは、一般的な鉄道と比べて、線路幅が狭く、車両の規模も小さい鉄道を指す。規格が簡易なので、建設費を安く抑えられる。橋脚がアーチ橋よりも華奢に見えるのはそのせいだ。
岩手軽便鉄道は、国による鉄道整備計画に盛り込まれなかった地方路線を建設するため、地元の民間資金を集めて、1911(明治44)年に設立された。1915(大正4)年までに宮守川橋梁を含む花巻─仙人峠間延長65.3kmが開通している。当初から、製鉄所がある釜石まで結ぶ計画だったが、仙人峠を越える標高差が大きいルートを設ける必要があり、資金面で頓挫した。そこで、地元出身の政治家らは国に対して、未開通区間の建設を根強く働きかけ、結果、国策として位置付けられるようになった。
国はその一環として、まず始めに岩手軽便鉄道を1936(昭和11)年に買収し、釜石線として国有化した。そして、全国規格に統一するため、線路幅を広げる「改軌」を1943(昭和18)年と1950(昭和25)年の2回に渡り、区間を分けて実施。改軌によって増加する列車荷重に対応するように、既設橋と並行に架けられたアーチ橋が1943年に完成した2代目の宮守川橋梁だ。
延伸工事は戦時中に一時中断したものの、釜石線は1950年に花巻─ 釜石間延長90.2kmがようやく結ばれた。それに伴い、完全に役目を終えた軽便鉄道だが、その遺構は100年前、この地方が持っていたポテンシャルの高さを今に伝えている。


■2014年

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